刊行にあたって

 リスク学は,自然科学,社会科学,人文科学など多様な分野におけるリスクに対するアプローチの集合体で,リスク学という単一の学問体系はこれまで存在していませんでした.それは,リスクという考え方が必要とされるという共通の時代背景のもとで,既存の対象分野および学問分野ごとに独自にリスク概念が取り入れられてきたという歴史的な経緯があるからです.そのため,それぞれが,分野間の対話を欠いたまま,独特の体系を持つに至りました.しかし,世界はますます相互接続性・相互依存性を増し,異なる種類のリスク同士が結合することも例外ではありません.本事典は,多様な対象と学問を可能な限り横断的に俯瞰して,リスク学の本質と輪郭を浮かび上がらせることを試みました.もちろん,すべての分野に共通する定義や手法を抽出することは困難ですが,最大公約数的な共通知見を見出すことは可能です.本事典では,リスク学をリスクの取扱いを巡る,個人的および社会的な意思決定に関わる多様な学問の集合体と捉えています.とりわけ,基礎的科学研究と現実社会の問題解決とをつなぐ部分を可視化することにこそリスク学の最大の存在意義があり,その意味では多くの部分がレギュラトリーサイエンスと呼ばれる分野に属しています.
 また,リスク学はいまだ現実になっていない事象,また現実になるかどうかわからない事象を取り扱う,将来を予測する学問という側面も持っています.人間は1 秒先の未来も知ることはできませんので,大げさに言えば神の領域に近づく蓋然性を少しでも高めようとする人間臭い学問と言えるかもしれません.そのため,リスク学は不確実な状況下においても少しでも合理的な意思決定をしたいという人間と社会の飽くなき欲求に従いながら発展してきました.この合理的な意思決定には,科学的合理性だけでなく社会的合理性も含まれます.科学的合理性から1 つの解が出てくることはむしろ珍しく,多様な価値観や立場の人々がどのようにそれを受け止めているかを常に考慮しなければなりません.すなわち,①分野ごとの固有の課題や考え方を尊重しつつ,②分野横断的に適用可能な考え方や方法論を丁寧に抽出し,かつ③解釈の多様性を認めつつ,④複数の科学的決定方法を提案することが求められます.そのためには,分野横断的なメンバーと車座のような議論が必要となります.一方が他方へ啓蒙的にならず課題を共有することから議論を始めるという意味では,リスク学の実践そのものが必然的にリスクコミュニケーションにならざるを得ないとも言えます.
 しかも,近年,コンピュータの計算能力の飛躍的な拡大, モノのインターネット(IoT),機械学習(特に深層学習)の進展を背景に,ビッグデータを活用した技術や産業が急速に発展するとともに,バイオ分野でもゲノム編集や再生医療の技術革新が進んでいます.これらは従来の安全にとどまらない広い範疇のリスクを生み出しつつあります.また,グローバル化に加えて,重要インフラが相互依存性を増した社会において,自然災害や金融危機が容易に複合化・巨大化することは,東日本大震災やいわゆるリーマンショックなどで明らかになりました.
 一方で,インターネットの普及により,様々な情報へのアクセスが容易になり,かつ,誰でも情報発信ができるようになった結果,従来専門家が占有していたリスク情報が,一般市民を介して拡散され,専門家のコントロールが効かない状態が容易に生じることになりました.リスク情報は,エビデンスの解釈に関わるため,いわゆる「偽科学」とは異なり,白か黒かで切り捨てることが難しいという特徴を持ちます.この言わば「リスクの市民化」は,科学的根拠の薄い陰謀論,内容ではなく誰が言ったかでの判断,不確実性を隠した断定的な物言い,極端な楽観論や悲観論,責任追及を恐れたイノベーションの萎縮などを容易に生み出します.本来はそうならないために生まれた実学としてのリスク学は,残念ながら十分にその機能を果たすことはできていません.リスクへの注目度が高まった現代社会において,リスク学が担うべき社会的責務は,分野ごとに細分化されてしまった専門家のリスク学へのアプローチを体系化し,再構築することにより,現代社会からの期待に応えられる学問・人財・制度に転換させていくことではないでしょうか.少子高齢化,経済の低成長の常態化や,上述したリスクの複合化や市民化は,対処すべきリスクのスコープをさらに拡大し,特に社会的なリスクへの対応は急務です.リスクの定義を分野横断的に見直し,現代社会の課題に対応できる実学に成熟させることは,まさに時宜にかなうと考えます.
 あらためて,リスク学への社会の期待に応えるためには,リスクに関する多様なアプローチや解釈について議論を尽くす中で,対象分野や学問分野を超えて互いに認め合い,互いに学び合う中で,一段と学際性を高めていく努力が求められています.
 そこで,日本リスク研究学会創設30 年の節目に一度立ち止まり,リスク学の学問体系を再点検,再確認し,次の時代に備えることが重要と考え,学問体系を整理した『リスク学事典』を発刊することといたしました.
 前回の『リスク学事典』の発刊(2006 年)から既に13 年が経過していることから,本事典は,国際比較を含めたリスク研究の今日的な到達点とリスク研究を実践するうえでの課題を明らかにし,現代社会が直面するリスクに対して問題解決の一助となることを目指しています.
 とりわけ,
⑴新しい技術革新が起こすリスクとその質的変化に着目した中項目の選択
⑵社会的排除など従来リスク研究の射程に入っていなかった家庭や共生社会のリスクにも着目
⑶新規技術のリスクや増加する残余リスクに対するリスクの移転の重要性を反映
⑷読者がリスク分野の知見を手軽に入手できるために,①最新の状況で中項目を整理し,②学術的な研究とはやや距離を置く政策担当者の方や初学者の方にもわかりやすい記述で,③さらに深く学習するための関連分野の明示と参考文献の紹介
などを特色としています.
 本事典は4 部構成とし,第一部が「リスク学の射程」,第二部が「リスク学の基本」,第三部が「リスク学を構成する専門分野」,そして,第四部が「リスク学の今後」としました.第一部にはリスクを取り巻く環境の変化(第1 章)を置き,第二部では,リスク評価の手法:リスクを測る(第2 章),リスク管理の手法:リスクを最適化する(第3 章),リスクコミュニケーション:リスクを対話する(第4 章),リスクファイナンス:リスクを移転する(第5 章)など,適切なリスクガバナンスを考えるうえで必要な構成要素をバランス良く解説しています.
 第三部では,健康と環境リスク(第6 章),社会インフラのリスク(第7 章),気候変動と自然災害のリスク(第8 章),食品のリスク(第9 章),共生社会のリスクガバナンス(第10 章),金融と保険のリスク(第11 章)など,リスク学の主な対象分野を配しました.そして,第四部は,リスク教育と人材育成,国際潮流(第12 章),新しいリスクの台頭と社会の対応(第13 章)とし,次世代のリスク学につながる内容といたしました.
 この事典が,新しいリスクの時代に,直面するリスクに真摯に向き合う一人ひとりにとって重要な一歩を踏み出す契機となり,同時にリスクに立ち向かう勇気を与えることができれば幸いです.

2019 年5 月吉日
編集委員長 久保英也